2011年9月4日日曜日

“こんな疲弊した山村

では淫売がむしろ快活な労働にもなるのだらうが、見るからに快活、無邪気、陽気で、健康な女がゐるのである。”
― 坂口 安吾 / 禅僧 ―


内田 百閒 / 百鬼園随筆


540 yen

新潮文庫 (新潮社)

362 pages











文庫本を片手に一人でだるまを呑む。酒をやると塩辛いものが食べたくなる。
ここは飲み屋なのだから、注文すればよい。しかし、品書きが悪い。

字面からでは一体どんな食べ物が出てくるか分かったものではない。
マリネ、カルパッチョなどと横文字が書き連なれているとたまったものではない。

そもそもマリネとカルパッチョの違いが判然としない。
ええいとマリネなるものを注文する。

給仕は此方の必死な振る舞いなどに気が付かないのだから始末が悪い。
ニヤリと笑いながら、これには葡萄酒が合う、などとのたまう。

私はだるまで充分だとも云えず、再度品書きと睨み合う羽目になる。
葡萄酒など数える程しか呑んだことはない。全く分からぬ。

片仮名を凝視していた所で埒が明かぬ。ちらりと給仕の顔を見るが澄ましたものだ。
如何ともし難い。自分の無知を曝け出すのも癪だから、適当に頼む。

そうすると、それは赤だ。魚だから白が良いと云う。
お手上げである。巻き煙草に火を点け、だるまで良いと答えるしかない。

端から宅で一杯やれば良いのである。
しかし、知己から「吝嗇家」と呼ばれてはそうもいかない。
それに反発するかの如く外で呑んでみればこの有様である。

私は吝嗇なのだろうか。
いや、単に自分の無知が人様に知れ渡るのが嫌なだけかも知れない。
それに先ず、人と顔を合わせるのが億劫で仕方が無い。

疲れてしまうのである。
これは金銭的な吝嗇家ではなく、精神的な吝嗇家なのではないのだろうか。
見知った輩ならば大丈夫か。そうでも無いらしい。如何ともし難い性質かな。

だるまを呑みながら一人でスルメを齧るのが良い。
卓に文庫本があれば満足なのである。

知己と顔を合わせるのも月に一度が良い塩梅である。
人嫌いでは食って行けぬだろうと云われるが、そうでもない。

必要最低限の会話はできるのである。
他人と顔を突き合わせるのが苦手ではないのか。

苦手である。しかし、どうでも良いのである。
気にならないのである。面白く無い輩は気にならないのである。

テレビジョンの話、博打の話、そうして女の話。
下世話にもならぬ、取り繕う話しぶりには辟易である。

粗暴な振る舞いが芯から来ておらぬ。
粗野な振る舞いをすれば事が思い通りに進むとでも考えているのだろう。

辟易である。その胡散臭さに辟易してしまう。
だるまが不味くなる。

芯からくる粗野とは如何なるものか。
近寄り難い行いか。それは違う。

早朝から酒臭く、昨晩の深酒が一目で分かる赤ら顔。
叱責されれば舌を打ち、眉根を寄せる。

その様な振る舞いを如何なる場面においてもしてしまう。
そういう輩が芯から来ている粗野な奴である。

取り繕う素振りなどもせぬものだから、此方も気が楽である。
だるまも美味く呑める。スルメの味も深みが増す。

胡散臭い輩が一番困る。参った、参った。


    

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